心の片寄り
スピリチュアルな【法悦】に酔いしれると、ついつい崇高なことだと勘違いしてしまうことがあります。
瞑想だけ、ヨガだけ、サイキック能力養成だけ、占いだけ、呼吸法だけ、座禅だけ、滝行だけ、写経だけ、断食だけ、聖地めぐりだけ、野菜食だけ、・・・・・etc
他の何よりもそれらだけが一番素晴らしいことにするならば、肉体的な快楽だけを求めていることと大して変わりありません。(それが悪いということではなく)表面的な片寄りの話しではなく、内面の片寄りが愛ではないということです。全てを等しく受け入れた上で、(人から見ると)表面的には何かを片寄って選択しているように見えていたとしても、それは片寄りではないのです。
昔、ダライ・ラマの知人である方から直接お聞きした話しですが、般若心経の最後の方の、ギャーティ ギャーティ でしたっけ?そのあたりの経文の本当の意味は、「お経を読んでばかりいないで、物理世界へ行って、行動し実践しなさい」ということらしいのです。
解釈は色々あるので、これだけが正解とも言えませんが、妙に納得したことを覚えています。
「物理世界で、行動し実践しなさい」と言っているのに、ジッと座ってお経だけをあげて、何か素晴らしいことをやった気になってしまい、満足してしまいがち。う~~ん(笑)
いえいえ、私自身も、40分くらいのお経の千日行(一日も休まず、読経を千日続ける)を2サイクルやったことがあります。
つまり、二千日ものあいだ、病めるときも、健やかなるときも、絶対に休まなかったのですが、それは、悟りを得るというご褒美が欲しかったからでした。これ、執着の固まりやん!(爆笑)。
のちのち、お経だけ読んでいても、ただ気分がいいだけで何も現実が変わらないと分かったとき、「そんな時間があったのなら、むしろ、ラジオ体操をしていれば良かった」という実に大きな悟りを得ることができましたが・・・(笑)。
話しが脱線しましたが、必ず、物理レベル・現実世界へと入っていくことがスピリチュアルな生き方です。内面は大切ですが、カタチだけ内面追求をやっていても意味がありません。
外の現実世界へ、内なるものを融合させ、統合させなければ、やはり片寄った生き方でしかありません。(片寄りが悪いとは言っていません)
神聖、崇高、それは全体的であることを指す言葉です。
同じ片寄りであるにもかかわらず、表向きが精神世界っぽいというだけで、何故か神聖で崇高だと勘違いされていたりします。
では、今日1日から4日まで、田舎に帰省します。PCメールのお返事ができませんが、宜しくお願い致します。
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