「不易流行」vs「過密さ」

| すぴりちゅあるブログ

 

私たちの「霊的」な本質が開花することを、
意識の覚醒と言いますが、では「霊的」とは何でしょうか?

 

言い換えると
スピリチュアルとは何でしょうか? →明言できそうですか?

 

「霊的」とは、決して
善良さ、サイキックな力、奇跡的な行為、優れた頭脳と知力、崇高さ、
といったような

特定の何かに
適用される表現ではありません!!!

 

世間では、
ここが大きく勘違いされています。

 

「霊的」であるとは
究極の悟りの境地にいることです。

 

透明、ゼロ、無、無限、空(くう)という根源の境地に
自分自身を【同調一体化】させることを言います。

 

ですから、「霊的」であることを妨げるのは、
透明ではないもの、無ではないもの・・・です。

 

つまり一言で言うと
「過密さ」です。

 

あなたが
物質的存在の「過密さ」にばかり目が向くと、

自らの足元にある「霊的意識」に全く気付かず、霊的ではなくなります。

 

長い歴史にわたって、不動の地位を得てきたかのような強い自我
私たちに長々と定着してきた自我、これは単なる「過密さ」でしかありません。

 

特別な「決まった個人」がいるのだという考え方そのものが、
「過密さ」です。型にはまった固まりです。

 

さて、「不易流行」という言葉があります。
常に「不易」から「流行」が生じるのです。

 

不易・・・いつまでも変化しない本質的なもの。
流行・・・新しく変化を重ねているもの。

 

「霊的」とは不易に相当するのです。
「個人」とは流行(一期一会)です。

 

本来は流行してしまうはずの「個人」を、
特定の決まったものとして固めてしまうと、頑固な過密さになります。これが自我。

 

ちょっと想像してみて下さい。たとえば、何かを習っても理解できないし、
色々と話してもらっても聴く耳を持たない・・・

 

そういう「愚鈍」な人がいると
想定してみて下さい。

 

そういう人は、映画にも、音楽にも、芸術にも、
何を見聞きしても、

 

心底からの喜びで
全身全霊が打ち震えることはないでしょう。

 


この愚鈍って、いったい何なのでしょう?

それが過密さのなせるワザです。

 

愚鈍になっている人は、不易からの流行する個人ではなく、
固定した我になっています。

 

いつも固定した我いう存在を中心にして意識し続け、
自覚してばかりいるので

 

喜び感謝に対して「愚鈍」になっていき、
霊的意識の至福からは遠くなるのです。

 

霊的な意識の達成を妨げるものは、いつも自分自身の中にあります。
それが固定した「我」です。過密さです。

 

過密な「我」を強く持っている人は、
心底からは弟子や生徒になることを好まず、できれば先生になりたがります。

 

その他大勢の演奏者になるよりも、
一人で目立つ指揮者になりたがります。

 

自らは大勢に同調しようとせず、
自分の考えと行動パターンにこだわります。

 

霊的意識の達成のためには、過密さから遠ざかり、
透明な無(空っぽのゼロ)を意識し、自覚し続けていくことです。

 

すると、「透明な無」そのもの「ゼロ」そのものが活性化され、
イキイキしてきて、

 

穏やかで自由で軽やかになり、
物事を味わう「感受性」は増し、喜びがますます増えます。

 

また近いうちに、
「透明さ」に関する無料動画をアップする予定です。

 

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