自我観察(内観)の目的
思考や感情想念の観察、
つまり内観(内省)という作業を
どこまで押し進めても、
はっきり言って何も得られません。
普段は沢山の外界のことに
意識を奪われているので、
思考や感情を
見つめることができない。
ですから、瞑想のために
目を閉じて座ると、
しばらくは世間の様子を
忘れることができ、
ふだんよりも思考に対して
敏感になれるのです。
そして想念が、
ふだんよりも
鮮明に見えてくるのです。
ですから、静かに座って
内観していると、
いつもよりもっと
多くの思考が
押し寄せてくるのが
分かるはずです。
そうなると、座って内観しながら、
結果的に、自分の「自我」を
見つめてばかり
といったことになりかねません。
イギリスの哲学者
(デビッド・ヒューム)が、
偉大な師から「内観しなさい」
という助言をもらって、
瞑想をやってみたら、
彼の内側には、
思考、感情、空想、イメージ、
未来への夢、過去の記憶、
そういうものしかなく、
他には何も見つからなかった。
彼は実に沢山の思考に出くわして、
こう言った、
「静寂もなく、至福もなく、
喜びも神も居なかった」と。
瞑想の真の目的は、
思考につぐ思考を
感情につぐ感情を
長々と見つめる
ためにあるのでもなく、
思考がやがて静まること
(内面が落ち着くこと)
のために行うものでもありません。
感情や想念を
見つめている「何者か」
に気づくためです。
誰が思考の流れを見ているのか?
その純粋で中立な「目撃者」に
気づくことができたら、
しかも、目撃者こそが、
静寂、至福、喜び、全一愛の虚空
だったのだと、
あの哲学者が気付いたなら、
内観形式の技法は
役目を終えたことでしょう。
いつまでも長々と
自分の思考を見つめるのではなく、
たった一つの思考を
見るだけでいいから、
その目撃者に気付けばもう充分です。
観察している純粋な無の意識に
気付けば充分です。
いたずらに内観を
繰り返していくと、
次から次へと現われる
思考や想念に振り回されていくだけです。
一つの思考が別の思考を呼び、
一つの感情が別の感情を呼び、
延々と果てしなく続く。
これでは真の瞑想ではない。
虚空という究極の目撃者
(観察意識)に気付き、
一つの思考というものが
「どこから」生じるのかを
見極めることができたなら、
それで完了すべきなのです。
思考が「無の空間」から
出てくることを知り、
また「無の空間」に消える
ことが分かれば、
それで充分です。
「あなた」の目の前でいずれ
消えていく思考や感情なら、
それは「あなたそのもの」では
ないことが理解できるはずです。
静かに座って内観していると、
いつもよりもっと多くの
思考が押し寄せてくる。
その時、さきほどの
瞑想の真の目的を忘れると、つい
「これらの思考をどうしよう?」と
分析を始めるようになる。
しかも、真の目的を忘れて
瞑想を続けると、
目を開けている時でも
思考に敏感になり、
普段の日常生活においてさえ、
思考無しで生きることが
できなくなる。
何をするにも
思考だらけ、
分析だらけ、
解釈だらけになる。
いつもいつも
考えている。
いつもいつも方法や
理由や原因を考えてしまう。
これが自我というものであり、
神経症を病んだ状態に
なっていきます。
自我とは、
いかにも正常に見える異常者
なのです。ですから、
無の空間を意識することで、
思考に癒着するクセが消え、
自然で正常な状態に戻るのです。
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