肥大化した自我(偽の自己)
私たちは、今まで何を所有しようとしてきたのか?
何に同一化して、自分(エゴ)を大きく見せようとしてきたのか?
全ては「賞賛」(=偽の愛)が欲しかっただけではないだろうか?
エゴは、他者からの注目と賞賛ナシには生きられない。
私の人生と言う時、「私」と「人生」が別物になっている。(気づいていますか?)
私の命と言う時、「私」と「いのち」が別物になっている。(気づいていますか?)
私のお金と言う時、「私」と「お金」が別物になっている。(そうではないですか?)
分かれた別物である限り、
その別物を所有したところで、満足は起きない。
別物は失う危険や、盗られる危険もある。
そして延々と所有するべく努力し続けなくてはならない。
所有するために、他を操作支配する苦労がついてまわる。
ところが、私が人生を所有しているわけではない。
私が命を所有しているわけでもない。
私がお金を所有しているのでもない。
実のところ、人生が私なのだ。命が私なのだ。お金が私なのだ。
全ては統合されているのだから。
そこが分からず、別物をかき集めて、
所有し続けて、自我を肥大化させてきた。
その太った自我から出ること(深い死)は、
並大抵のことではないことくらい、よく理解できます。
それでも、この肥大化した自我への一体化をやめて、
そこから出ることでしか、全一なる統合された虚空にはなれない。
※以下は、深い死に関する簡単な動画(4分少々)です。さらに詳細な内容は、「虚空に帰還する」というタイトルで、動画販売ページにございます。オススメです。
それから、体験メールを頂きました。「皆様の参考になれば」というご厚意からの許可を頂き、以下に掲載させて頂きます。
◆K氏より
(帯広神儀のあと)感覚が研ぎ澄まされているのが実感できます。
何もないところに意識を置くとまず、呼吸(虚空)しかないことに気づき、
そのまま呼吸に委ねていることができます。
そして、何もないところは一ヶ所だけじゃなく、
無限にあることに気づきます。
(センターとか中心とか言うと、一点しかないように考えがちだったけれど、)
何もないところに意識を置くと深みが感じられます。
この奥行きに愛の大きさを感じます。
本当にどれが正解だとか判断しなくなり、
日々丁寧に生きて行く中で、気づきが起こるだろうと
ゆったりと楽しみながら観察していこうと思ってます。
◆Mさんより
今回、帯広神儀当日は 実家(富山)にいました。自然がいっぱいの中で宣言をし、自然やすべてのものと一体感を感じました。
翌日、横浜に戻ってきたのですが、今まで以上に虚空を意識して(虚空に意識を置いて)過ごしていて、私の中の深く深くに、死のプログラムを発見しました。
Manaさんの本やブログで頭では理解していたのです。
自分でも「本当の自分(虚空)は死なない」とあらゆる本を読んだりして知識としては持っていたのです。
しかし。
知識として持ってはいても、自分の中にあったプログラムは強烈でした。
『どうせ死ぬんだから楽しいことをしてもムダ』
『どうせ死ぬんだから喜びなんてなくても別に構わない』
そんな思いが死のプログラムがあることで湧き出てきます。
絶望感が半端ない。
そんな感じですが、私は今少し喜びも感じています。
なぜなら自分の中にこのプログラムがあったことに気づいたこと。
深い死を迎えさせることが出来ること。
このプログラムを見つけられるくらいに虚空に意識を置けるようになってきたこと。
大きな大きな神儀参加になっています。
沖縄の神儀もどうぞよろしくお願い致します。
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