私という言葉=エゴ
◆今日も非常に重要な内容です◆
「私」という言葉は、おおもとにさかのぼれば分かることですが、たったひとつの「根本中心」を指す言葉であった。根本中心にのみ「全体すべて」があって、その「全体すべて」を「私」というのです。もし、肉体的な各自が「私」という言葉を使うなら、正しくは「我々」というべきなのです。
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人は先ず、非常にエゴイスティックになる経験をするのです。エゴイスティックな欲を持ち、その欲を達成しようと奮闘する【強い意志力】を育てなくてはならないのです。若いうちは、全力でこの全欲望への意志力を培う必要があるのです。それがいつか美しいものへと花開くための土台であり、母体だからです。
我々は、「私」という言葉を勘違いして、肉体的な個が「私」なのだと信じた。でも、その錯覚から生まれた「個人」(エゴ)は、別に悪いものではありません。そして別に良いものでもありません。ですから、何の葛藤もなく、迷いもなく、一切の躊躇なく、極端にまでエゴイスティックに突っ走ることができる人は本当に素晴らしい! 強い意志を持ったエゴや、強い貪欲さを持ったエゴは本当に素晴らしい! それは極限の体験ができるからです。根本中心(=神)は中途半端を嫌うから、極限までやってこそ、自ら満足するのです。
強いエゴ、強い欲、強い意志、そこから迷いなく全ての事柄を体験したならば、そのあとには何の未練も執着も残らない。最後の最後まで、徹底的にエゴイスティックであれ!自我を貫き通し、自我をやり抜き、完全に敗北を見るまでやめないこと。
そして、次の段階では、この徹底的に強く鍛えあげたエゴイスティックな意志力を、大いなる根本中心へと【返上する】ことを通じて、神ながらの道に入ることになります。
エゴが握ってきた主導権を、100%明け渡すには【相当な覚悟の意志】が必要だから、それはイヤイヤながらにできることではないし、中途半端な気持ちでしかたなく諦めてできることではない。自発的に、積極的に、主導権を【返上する】ことが求められるのです。
エゴが弱かったり、意志力が弱かったり、欲望を認めていない人には、【返上】が完全にはできない。未練や、執着や、やり残し感覚があるからです。そうならないよう、先に、思う存分、貪欲のままに何でも体験していくことが必要なのです。
この個人としてのManaも、過去において、思う存分エゴイスティックな欲を認め、お金でも、地位でも、物欲でも、何でも追求し、自我の範囲で可能であろう究極までを実行してみた。実験もしてみた。それは実に楽しい経験でした。
だから、エゴの限界を見ることができ、エゴの挫折を知ることができたのです。エゴの欲の限界を超えることが可能なのは、エゴを超えたものにしか不可能だと知ったのです。だから、一切のエゴを【返上】することを決めることに迷いはありませんでした。金輪際、エゴはもう不要だと思い、もう充分だと清々しいまでに納得できたからです。
大いにエゴ丸出しであれ!それの限界までを極めて下さい!そして、大いに降参できたら、全てを返上して下さい。
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