一なるもの(根源の神・一霊・直霊・大霊)
アイ(天意・愛)というものに関し、
人それぞれの「認識」と「思い込み」「イメージ」があります。
こんなふうに「アイの基準」がバラバラでは、
宇宙が調和しません。
ですから、そこには
厳しい線引きが(叡智の創造主によって)行われました。
アイに関しましては
未来永劫を基準としたのです。
宇宙のあらゆる全ては
「一なるもの」「根源の神」から生み出され、出現しました。
ですから、宇宙の全てが
「一なる生命」「神の生命」を公平に持っていることを、私たちは決して忘れてはならないのです。
その「一なるもの」は、
最善最高の理想ビジョンである「弥栄」を描きました。
そのビジョン達成への情熱的な意志が
「一なる生命」の歓喜あふれる流れとなり、
私たち各自を通じ、森羅万象を通じて、
この地上界に完璧に現れ続けるはずでした・・・。
私たちの意識が「一なるもの」の表現を
妨げることをしなければ・・・。
「一なる生命」の使い道を
外さなければ・・・。
私たちが、弥栄に誠を尽くす方向にのみ
「一なる生命」を使っていると、
生命の流れはどこまでも「各自」の中を貫いて流れ続け、
「各自」は光を放つ存在になります。
どこまでも明るく
元氣でいられます。
私たちが、「一なる生命」を弥栄への奉仕に使わない時、
生命力が落ちるのです。
欠乏や貧困が
起こります。
私たちが宇宙の理想ビジョン(弥栄)に貢献していると、
弥栄に向かう「一なる生命」が私たちの「意識」の中を流れ続けますから、
私たちの「意識」は
神の直観や啓示を受けるようになります。
「コトダマ」は
生気を帯びて明るくなり、
「カラダ」は調和し、
「細胞」はますます歓喜します。
カラダは更新し続け、
超人ボディへの変容が開始されます。
根源の神が与えてくれた「一なる生命」は、
私たち各自の「生命力」となって公平に流れていますが、
その生命が内包する才能を
この地上界に展開しなくてはならないのです。
生命力を
各自の好き勝手に使っていいわけがないのです。
根源の神が理想として描いた「弥栄」を
この地上界にあらわすことこそ、私たち全員の生命の「一大目的」です。
「根源の神」のビジョンを我がビジョンとし、
心の中に常に覚えていなくてはならないのです。
それ以外のビジョンは
忘れて下さい。
ビジョンが「たった一つ」にまとまってくると、
ものすごい生命力になってきます。勝手に力が出てきます。
理想ビジョンへの実践は、初めはスムーズに行かなくても、
決意表明・意志決定・イノリを絶対に変えず、歓びをもって前進していくと、
その誠実なトレーニングは
必ず実を結びます。
私たちの意志が「神の理想ビジョンに仕えるぞ」「我、仕えんと意志するぞ」という気持ちになることで、
魂の力・生命力・自愛があふれるように出てきます。
ただし、根源の神(創造主・一なるもの)に奉仕する者たちが、
(地球上で)たとえ一時期は多くなったとしても、
かなりの数の人が、
自発的な学びとアイの実践を途中放棄するか、休憩して、
もとの意識パターンに
ズルズルと戻ってしまうことが多々あります。
世間一般の意識に毒され
「安直な暮らし」に戻ってしまうのですが、
それは、「少しくらい自分の好きなことをしてもいいでしょ」
「少しくらい自分の思うようにしたい」という個人的な考え・感情が湧くからです。
宇宙の意志に向かって
やんわりと逆らうのです・・・。
そして、これこそが根源の神が定めた
「未来永劫」というアイの基準への
反発と
反感なのです。
たまに私たちは、
「そこそこ奉仕して、そこそこ栄えればいいし、未来永劫でなくてもいい。
そこまで霊的な向上を
しなくてもいいのでは?
今の状態でも
充分イケてる!」
そういった「考え」「感情」に
陥ることがあります。
つまり、それは「等身大の自分」を
ちゃんと認めていない自愛不足の時にそうなるのですが、
そんな自分は、「未来永劫」という基準を
少しキビシイと観じ、反発します。
これが「天への刃向かい」となり、
かつての神界や地球が大きく荒れた原因だったのです。
地球の次元上昇のカウントダウンが始まった今、
「未来永劫の基準」に沿うのか、否か、
ここが天下分け目の
「踏み絵」です。
エゴの誘惑に負けて
「安直な暮らし」に戻ることが悪いと言っているのではなく、
「そんなところで止まらなくても、もっともっと幸せになる道があるよ。
それが未来永劫という基準なのだよ」と宇宙は伝えています。
今、私たちが
最も癒すべきエゴは何かというと、
「未来永劫という基準」への
反発と反感を燃やしている自分自身です。
命がけで「未来永劫の基準」に反発している自分自身ですから、
命がけを上回るほどの「最高の情熱」、
つまり
「根源の神の情熱」がナイと溶けません。
個人の力だけでは
癒せません。
そのために、
根源の神の
「意識」&「カラダ(霊体)」に合一し、
根源の神のあつき思い、
深くて大きなアイに触れ続け、
その神聖さと偉大さに
完全にひれ伏すことが肝要です。
忘れてならないことは、
私たちは「根源の神」のコピーとして生まれたという点です。
根源の神と同じ「あつき思い」
「深い情熱」をもって地球にやってきたのです。
根源の神と寸分たがわぬ
「未来永劫のアイの基準」をもって、意気揚々とやってきたのです。
「根源の神」と合一すれば、
そんな自分を思い出しやすくなります。
結果、未来永劫の基準へ反発している自分を
癒すことが本当に楽になります。
いにしえのマスターも
こう言っています、
「人々の生き方は自由だし、
それぞれの道を歩めばいいのです。
ただ、私たちは、私たち自身が今までにやってみた中で、
非常に満足のいくシンプルで簡単な道を示そうとしているだけです。
それをマネしないのは
何故でしょう?」と・・・。
「人生の本当の意味」
に目覚めている人は非常に少なく、
たとえ目覚めていても
「そのように生きる」
ことをしている人はもっと少なく、
大部分の人は「適当なところ」でやめてしまうか、
自分の価値観に沿って生きるほうへと戻ってしまいます。
それほどまでに、
歴史的な個人のカルマは強いということです。
そこには
魂の自由は無いというのに・・・。
真の歓喜もなく、生命力は低くなり、怒りは湧き、
コンプレックスや欲求不満に陥り、どこか確信が持てずに、
それでも自分の魂をごまかしながら、
不安なままで人生を漂っていくだけ・・・。
~閑話休題~
今までの地上界での歴史において、
人々は有限の五感(五官)に依存するようになりました。
見えるし、聞こえるし、触れることができるからといって、
物質的なカタチに強くしがみつくようになりました。
ある者は
お金を望み、
ある者は
家や土地を欲しがり、
ある者は
博識や霊的な知恵に憧れる。
実は、外側から得ようとするカタチの全ては、
初めから「一なる生命」の中に内包されているのですが、
五感のバイブレーションに振り回されることで、
繊細で微細な「一なる生命の音」に触れなくなってしまったのです。
しかも私たちは、物質的なものを
「自分の力で」手に入れたとか、
何かを「自分の力で」成し遂げたと思い込んで、
おごり高ぶっていきました。
でも、もし、
あらゆる全てが「神のもの」であり、
「一なる神から生じるもの」であり、
人々を経由して表現されていくものであることが理解できれば、
私たちは素直に「神との共同作業」に
立ち返ろうという意識になるのではないでしょうか。
この「一なる生命」「神の生命」をリアルに実感し、
そのイキイキした歓喜に同化して溶けあうことで、
「神との共同作業」が
可能になります。
(草場一壽氏の陶彩画)
今までは、「自分の力で」何とかすると思うことによって、
人間の低俗な感覚器官に触れるものしか生み出せなかったのですが、
「神との共同作業」を意図し、
無音(沈黙)に触れて、無音(沈黙)を利用するようになると、
いっさいの善きものが
引き出されていきます。
無音(沈黙)とは、
私たちの全身全霊の一番深いところにある聖域です。
無音(沈黙)は「空(くう)」であり、
この空なる無音(沈黙)こそ「力の根源」です。
つまり、根源の神が
そこにいるのです。
無音(沈黙)の
「空(くう)」こそが
根源の神の
「住居」です。
全ての表現、全ての現れは
「一なるもの」「根源の神」が先行しなければならず、
そうなって初めて、
完全なるものが表現され、創造されるのです。
「一なるもの」「根源の神」が先行するには、
私たちのイノリ(意志決定)が必要です。
そのイノリは「他の一切合切」が
無音(沈黙)になっている中で行われなくてはならないのです。
ですから、アイを意志する時や、イノリの際は、
個人的な内なる思考、脳内のおしゃべりを超える必要があります。
その奥にある無音に触れてから
行って下さい。
「思考や感情などの雑音」がない空間、
無音(沈黙)の空間で、情熱的イノリを発して下さい。
空なる無音(沈黙)の聖域は、
アメノヤヒロドノ(天の八尋殿)とも呼ばれますが、
私たちが外側空間に感謝・祝福することによって、
内側空間も共鳴を起こし、空なる無音(沈黙)が分かりやすくなり、触れることができていきます。
私たちの中にある全ての意志力は、
空なる無音(沈黙)に住まう「一なるもの(根源の神)」から働き出すことが最善なのです。
次回の更新予定は
7月23日(火)です。
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