「若獅子」の気振り(けふり)
大阪の関空といい、北海道といい、
飛行機が飛べない状態が続きました。
飛行機が飛べない状態、
これは世俗の方の多くが、
自由自在に大空へはばたけない
「不自由な意識」でいることの象徴でもあります。
「羽衣」を奪われた
天女と同じです。
そして大空とは
まさに「大いなる空(くう)」のことです。
実は、5日の夜に
歌舞伎座へ観劇に行ってきたのですが、
奇しくも玉三郎による「羽衣」
という演目があり、
羽衣を奪われた天女の話は
ちょうど飛行機の状況とシンクロしていました。
私たちの自由自在だった神意識も、
人間の意識になりきったことで、羽衣をもぎ取られた状態になってしまったのです。
………………………..
この他にも沢山のメッセージが
5日の歌舞伎の演目を通じて降りてきました。
主なものは以下です。
〇俊寛(しゅんかん)
今回の「演目上」に限っての
ストーリーをかなり省略して申しますと、
平清盛に反発して、
絶海の孤島(喜界島)に流された僧侶の俊寛が、
ようやくやってきてくれた
「御赦免船」にて助かりそうになるのですが、
船に乗れる罪人の数は
3人のみ。(俊寛と仲間二人との合計3人)
罪人仲間の一人が
「島の海女」と結婚していたので、
その妻を乗船させるとなると、
人数オーバーになるからできない。
仕方なく俊寛は、
自分が喜界島に残ることを選び、
その代わりに
島の海女を船に乗せることを決意。
そして俊寛は、船に乗って本土へ帰っていく者たちを
たった一人で見送る・・・
というシーンをもって、
話そのものは終わることになるのですが、
実は彼の内面は
「決着がつかないまま」、
終わるに終われない、
感情的な余韻エネルギーを残しての幕引きとなりました。
やはり本土に帰ることへの
「あきらめ」がつかなかったのです。
彼の「表層の意識」では、
良きこと・正しきこと・義に熱きことを全うして、満足したでしょうし、
のちのち彼の行為は
他の人によって絶賛されることになるでしょうが、
船が見えなくなるにつれて、
俊寛には
あとからあとから
「隠された感情」が湧き上がり、遺恨・悔恨・後悔が浮上するというエンディングです。
ここから学ぶべきは、
俊寛がニュートラルな意識で天地とつながっていたなら、
全く異なる現実の
展開になったということ。
どうすればいいのかを
彼は「頭」で考えてしまい、
自・他という視点を握ったまま、
「ここで助けるべきは、俺か?彼女か?」と二極で考えたから、共に栄えることができなくなってしまいました。。
〇道成寺
うらみ・後悔・遺恨が極まったあげく、
美しい白拍子がとうとう蛇体になってしまいます。
そして、太鼓の音や
念仏によって最終的には成仏するというお話。
この場合の太鼓は、
まさに「生の鼓動」をあらわしています。
遺恨の念をベースにして
「あいつを生かしておくまいぞ(=殺したい)」と念ずるような蛇体とは、
まさに真逆のものを
太鼓が象徴しています。
いかなる念にもしばられず、
思うがままに躍動し、自由に響き広がってゆく生の鼓動(呼吸)こそ、
太鼓の音色であり、
それによって「神の道が成る」。まさに道成寺。
〇獅子の毛振り
これは圧巻の感動ものでした。
通常の獅子舞踊は
「紅白2体」の獅子(連獅子)が多いのですが、
5体もの「若獅子」が舞うのは
初めて見ました。
今回の獅子舞踊は、
お能の石橋(しゃっきょう)という作品がもとになっているそうで、
見ているうちに、
私自身の魂の奥底から、
5体の「若獅子」が
誕生するかのような感覚を覚えました。
そして、若獅子たちの
頭の毛がゴージャスで、
全員が真っ白なので、
ものすごく美しかったです!
観劇の翌日に、
「あの若獅子のごとく、頭を真っ白にせよ。そして毛振りをせよ」というメッセージがありました。
思考や観念だらけの「頭」を、
「真っ白」でまっさらな頭に戻して、快活に生きよということです。
若獅子が5体そろった意味は、
人型生命体の「五体満足」を象徴するのだそうです。
皆さまも一回くらいは
見たことがあるかと思いますが、
見せ場として
獅子はグルングルンと毛を振り回します。
この【毛振り】という所作は
【気振り】という意味で、邪の「気」を「振り」払うという所作です。
邪(じゃ)は
蛇(じゃ)に通じますね。
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