まめに生きる(丁寧に生きる)

| すぴりちゅあるブログ

「いのちの喜び」(至福)が私たちの源泉(=空)です。
そして、「いのちの喜び」は、感じるものですし、感じることは「たった今」しかできません。

「たった今」を感じて、「今」を生きるために大事なことを思いめぐらし、そこを考えるのならOKですが、もうどうしようもないことや、「たった今」に関連しないことを考えると、「たった今」からズレてしまい、「たった今」を充分に感じて味わうことができません。
「たった今」、受け取っている至福が分からなくなるのです。

「たった今」を感じて至福であること、それは平和な静寂かもしれないし、あふれるような満足かもしれないし、ジンジンする情熱かもしれません。
「たった今」の至福の中にこそ、最も沢山の味わいといろどりの深さがあるのです!
「たった今」に集中して、丁寧に生きていると、感じることに「深み」が出ます。これが真の感動です。

ここで、【最大の秘密】をばらします(笑)(他ではあまり聞かないと思います)
「考えるより、感じよ!」と言われるのはなぜか?
もちろん、「今」の至福を味わって知ることが生きる意義だからなのですが、「何か」を考えるということは、その「何か」のことだけしかフォーカスできず、したがって「狭い思考情報」しか分からなくなるからです。

「感じている」ということは、【全ての叡智、全ての思考情報】にアクセスすることになるからです。
「感じている」ことは、四方八方から、最高最大無限の「考え」を手にすることになるからです!
神は全ての思考を持っていると言われるのですが、その全ては「感じる」ことでしかアクセスできません。
そういう意味では、「感じている」という言い方より、「全ての思考を感じている」という表現が適切です。

私たちは、無限に流れる「いのちの河」(至福の流れ)そのものですが、その河における「さざ波」といいますか、「隆起」のようなものを楽しんで「感じる」ために、それらを造っています。
それらは「さざ波」自体の意思ではなく、「いのちの河」の意思によって造られ続けます。

「さざ波」の隆起が起こってくる【源】は、「河」それ自体の欲求によって造られます。
たった今の「さざ波」は、「河」の欲求の現れです。
そして、「さざ波」は「いのちの河」の一部を使って現されています。
「さざ波」は、欲求そのものなのです。

ですから、生きる欲求や欲望を否定すること自体、【源】の欲求を否定することになり、ひいては「さざ波」を否定することになり、動きを否定することになり、生きることを否定することになります。
大事なことは、欲求の否定ではなく、【誰の欲求か】ということなのです。
「さざ波」自体が自我を持ち、【源の欲求】と離れて勝手に暴走すれば、「河」全体の至福の流れのジャマになるのです。

「さざ波」は、ただ「河」の欲求を素直に受け入れて、そのつながりを太く感じて、楽に押し上げられていく隆起を楽しみながら「感じて」いけばよいだけです。
「さざ波」が「河」の欲求を受け入れることを、古事記では【うけひ】と書いております。

各自である「さざ波」は、感じることを楽しんでいくわけですが、ここのところ、「ていねいに生きよ」とか「まめに生きよ」というメッセージが多いです。
「まめまめしい」という表現がありますが、この「まめ」は「真愛」です。
すべてのことに、繊細に真の愛を感じていることが「まめに生きる」なのです。

そういう情報の流れを受け取りながら、ふと気付くと、まわりの物質たちから「声」というか、彼らの表現が聞こえてきました。

スサノオのミコト・・・だけじゃない
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いちごのミコト・・・

(あはは! いいな~♪ やおよろずの神たち!

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