中庸(ゼロ)の「感性」
●「自分に合った仕事」というのは幻想だと思います。やってみなければ分からないし、最初はなかなか気持ちが入らない仕事でも、丁寧に続けてやっていくうちに、やりがいや面白みが出てくることはいくらでもあるからです。
最初から、「自分に合った仕事」とか「自分が好きだと思える事」にこだわり過ぎると、「やっぱり向いていない」と早急に結論づけることになります。
●人は打たれれば、当然痛い。生きていく中で、痛みを知るのは当然で普通で当たり前です。その当たり前のことを否定するから、頭がおかしくなるのです。
肉体の痛み、感情の痛み、信念の痛み、というように、人生には打たれて痛いことも多くあります。打たれて痛みを知ることは、生きていることの証し。痛みを沢山知ることは、決して悪いことではなく、要するに、いつまでも手離せないことが問題なのです。手離して、心の痛みを死なせてあげないから、「傷」や「トラウマ」として残るのです。
●怒りでも、不安でも、そういう気質(気分)にとらわれ続けていると、生産的なことは何ひとつ無い。創造的なことも何ひとつ無い。
怒りや不安が出てきたら、できるだけ早く体を使って気分を転換することです。
これ以上考えても煮詰まるだけなら、その考えを手離す。軽く体を動かすことによって、エネルギーがまわり、情報がまわっていき、それまでとは全く違う別のスイッチが入る。
怒りは攻撃性のあらわれで、不安はその対極。どちらにも片寄らず、「中庸なリズム」「ニュートラルな感性」に切り替えるために、体を動かしていくのです。
●集中しすぎると、緊張が生まれる。集中は「拡散するような感覚」で持つとき、ちょうどいい塩梅(あんばい)になります。
これが「中庸」(ゼロ)です。あらゆるものの中心です。これが宇宙の「根源的な真理」です。死と生(崩壊と新生)という二極を創りだす「源」です。
「中庸」(ゼロ)という「ニュートラルな感覚」から「生へのベクトル」が創造され、「死へのベクトル」が創造される。
ということは、「中庸」(ゼロ)は、生からの影響も受けず、死からの影響も受けない、最強で無限の「立ち位置」なのです。
ニュートラルな「感覚」こそ、生死をあやつるヴァイブレーションだったのです!!!
「中庸」、「生へのベクトル」、「死へのベクトル」これが、古事記で言うところの「造化の三神」です。生と死という相反するベクトルを超え、そのどちらからも離れたところにある「中庸」は、生と死の二極の「親」なのです。絶大なる親です。ここが創造主の本当の立ち位置です。
「中庸」こそ、最も「敏感な感性」の境地に至っているということです。「悟り・覚醒」の感覚の境地です。→お釈迦様は中庸というものの感性を悟られたのであって、理屈だけでは半覚醒でしかありません。
中庸の感性、中庸のヴァイブレーションが、生と死をはじめとする「あらゆる二極」「あらゆる正反対」の親です。
感情エネルギー、思考エネルギー、意志エネルギーなど、あらゆる「生エネルギーの発揮」は、実は、強すぎても弱すぎてもパワー不足になり、創造性や生産性は下がるのです。
ときには全く物理化創造されずに、夢や想像で終わります。
覚醒という側面のみならず、現実行動の側面において、「中庸の感性」が大切だということです。(強すぎてもパワー不足とは、意外な盲点です)
たとえば、「集中と拡散」という正反対の二極が等しく組み合わされ、調和したとき、そこにブレない中心軸が形成され、真の光の柱となり、絶妙な感性の存在感が生まれます。これが瞑想の極地で、最後の瞑想であり、最初となります。悟りの最終段階である感性です。
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